基本情報
・寺本 真浩
・職業: ITエンジニア
「会社員として長い間、頑張ってきたけど将来に対しての不安を感じる。
その将来の不安に対して何かを変えたいが、どう行動していいのかわからない。」
そのような境遇を抱えている方に対して、
自分がこれからWEBマーケティングを学びながら実際に行動して、紆余曲折した結果、最終的には年収2000万を稼ぐストーリーを洗いざらい伝えていければと思っています。
寺本って奴、30過ぎて夢見すぎじゃない?大丈夫?
そもそもどういう人なの?と思われている方に対して、
下記に私の人生の生い立ちを全て書かせていただいたので、読んでいただけると幸いです。
幼少期: 無邪気な子供時代
私は、広島県のごく一般的な家庭に生まれました。
あまり自分から話をしない寡黙だけど、いつも必要なタイミングでは全力で助けてくれる電車の運転士の父親。
おしゃべりで、いつも気にかけてくれる優しい保育士の母親。
4歳歳が離れていて、友達感覚で接してくれる優しい兄。
海外旅行とかには行けないが、年に2回の夏・冬休みは国内旅行には連れて行ってくれる。
一般的な世帯年収ではありますが、すごい優しい家族がいる幸せな家庭だったと思います。
小学生時代の成績は、そこそこの成績。
毎日、仲の良い友達と小学校の授業が終わった後、
放課後は近くの公園で野球をやったり、友達の家でゲームで遊ぶことだけを考えていた恵まれて育ちました。
幼少期
一般的な家庭でどこにでもいる子供たちのように楽しく幸せな日々を過ごしてました。
中学生~高校生: 孤独の日々
そのまま特別に中学校受験をせずに公立の中学校に入学、上下関係がうまく行かず最初に入った部活は速攻やめて、帰宅部同士の友達とゲームをする毎日でした。
友達は少なかったものの、それでも日々の生活は楽しく、これが永遠に続くものだと思っていました。
しかし、中学校2年生の時に、突然いじめの対象になってしまいました。
理由の1番は、人の気持ちが分からない性格だったこと。
当時の自分は、相手の気持ちを考えずに思ったことをすぐ言葉に出す子でした。
関係性ができていない人に対しても、思った通りの言葉を使って相手の心を傷つけてしまったのだと思います。
当時のいじめっ子の事情を知らずに思ったことを喋ってしまったために相手の気持ちを傷つけてしまったことにより、いじめの対象になってしまいました。
そこから、学校に来ては机に落書きをされたり、自分の持っているものを投げられたり、キャッチボールされたりの毎日が続きました。
そして、ある日、自分の持っているシャープペンをいじめっ子同士で投げ合った際に、シャープペンが壊れる事件が起きて、シャープペンと共に自分のポキッと心が折れて、学校に行くのが怖くなり不登校になりました。
その時に自分は人とか変わってはいけないんだと思いました。
そこから、私が中学校にいくことは、ほとんどなくなりました。
そして、このまま中学校に行くことはなく、親の勧めもあって高校は卒業した方がいいということで、私立の偏差値が低い高校に進学しました。
高校に進学してからも引き続き、学校にいくことはあまりありませんでした。
高校には、たまに学校に行っても表面的に同級生と会話を交わすだけで学校が終わったら、家に帰ってゲーム。
学校に行きたくなかったら、学校に行かない。
日常が楽しくもなく、辛くもなく時がただ無色で進んでいくような日々でした。
中学生~高校生
思春期の時期にいじめを受け、孤独な日々へ人間不信に陥る
高校卒業~浪人時代: 初めて自ら選んだ選択と人生の転機
そして、高校3年生の卒業間近。進路を決める時期が来ました。
私は、中学校から家に引きこもってゲームばっかりだったので、勉強も全然せずに過ごしていたため、学校の成績も最下位に近い状態でした。
私は大学生を選ぶか就職を選ぶかという進路のタイミングで、既に自分の人生は終わっていると人生を諦めていたので、就職をしようと考えていました。
ただ、高校進学と共に両親が大学には進学をした方がいいという勧めもあり、兄が通っていた予備校の体験講義を受けてみることにしました。
そして、体験講座の内容はあまり自分の記憶に残りませんでしたが、予備校の有名講師の講義を受けてみて、自分の世界が変わりました。
その講師は歌手になりたいとずっと30歳近くまで頑張っていたのですが、結局、歌手という夢は敵わず、友達の死や彼女の結婚するために今まで頑張ってきた歌手の夢を諦めて講師の仕事に就いて、必死に働いて予備校の中でも有名な講師として成功されたそうです。
私は、この講師の講義に魅了されました。
その理由は、自分は18歳まで家族含め、大人と深く接する機会がなく、楽しみながら仕事をする人を見たことがなかったのです。
そのせいもあって、18歳の私は将来について本気で深く考えたこともなく、高校生からでも大学生からでも最終地点の会社員という道は変わらずで何をしても人生は変わらないと思っていました。
ただ、私は、その講師が実際に行なっている大学受験に向けた講義の内容ではなく、
予備校講師を本気で楽しんでいて、多くの生徒を魅了している。
今まであった大人の中で圧倒的な収入を稼いでいる。
30歳近くから必死に働いて現在の立場にある。
その人の生い立ちや講義をしている雰囲気や言葉に刺激を受けました。
私は、その講義を受けて、
こういう大人もいるんだ
まだ18歳なので努力すれば逆転可能かもしれない
一生懸命頑張って、この人のように楽しく仕事して、お金持ちになって、多くの人を魅了できる
と思いました。
私は、将来について少しだけ真剣に考えるようになり、今の人生を逆転するために行動しよう。一生懸命頑張ることで、この人のように楽しく仕事をして、お金持ちになって、多くの人を魅了しようと思いました。
私は、その講師の講座を受けて、今までの人生を変えたいと思い、両親にお願いをして一生懸命勉強しました。
その結果、2年間かかりましたが、偏差値30後半ぐらいの学力から親に迷惑をかけて、偏差値60近くの難関理系私大に入ることができました。
高校卒業~浪人時代
人間不審だった自分が初めて浪人という選択を行い、行動して時間がかかったものの初めて成功する。
大学生 ~ 大学院生: 技術者としての初めの一歩
それからも大学に入っても勉強を続けていき、大学4年生になった時。
理系のため所属研究室を選ぶこととなり、大学で勉強していく中でエネルギーの問題に対して興味が出たので、太陽電池の研究室を希望して配属しました。
研究内容は、普及しているシリコンの太陽電池の素材ではなく、新素材での基礎研究で、光の割合に対して、どのくらいの電気を生み出せるかという効率をどれだけ高めるかという研究内容でした。
その研究室教授は厳しく、土日問わずに毎日12時間ぐらい研究室に篭り必死に研究を行っていました。
ただ、毎日の研究は中々すぐに効率が上がって結果が見えるという研究ではないことにすぐ気づきました。
たった0.01%上げるために数年を費やすという研究内容で日々の研究は特段変化なく、私は淡々としている毎日にあまり面白みを感じることができませんでした。
ただ、ほとんどの大学生が大学院まで進学をするため、自分も流れに乗って大学院で同じ研究をすることに決めて進学しました。
そして、無事に大学院に進学み、大学同様に淡々と研究する日々を送っていた時に、大学教授の紹介で自分の研究内容と同じ研究をしているが、企業と協力して研究している研究機関に行く紹介をいただけることとなり、
最新の研究装置を使って、成果をバンバン出すように頑張るぞ!!と
迷わず行くことを決めました。
そして、最初は優秀な大人の研究者のお手伝いとして教えてもらいながら研究をさせてもらう日々を送り始めました。
それから、最初は、最先端の装置を使いながらの研究であり、普段行っている大学の研究室とは違い、様々な経験をさせていただき頑張っていました。
ただ、そこの研究室でも最先端の装置を使っているのは大学の研究室と同じだったのですが、たった0.01%の効率を必死に上げる研究は変わらず、どれだけ努力しても成果が見える形になることはありませんでした。
そこから、大学時代と同様に淡々と移籍先の研究室で研究を頑張り続けていった結果、たまたま効率という形ではなく違った形で研究成果を発表する機会を得られ、海外での学会発表も行わせていただきました。
ただ、海外での優秀な研究者たちの発表は、すぐに製品化されるものではなく日の目を見る可能性がない発表ばかりで、聞いていてもワクワクできない。
大学に入るときに志した「一生懸命楽しく働いて、収入を手にしたり、人を魅了するという」ことと、これからも研究者を続けていくことが繋がらないことがわかったので、研究者の仕事は自分に向いていないんだなと思いました。
なので、将来、私は自分の知識や技術がすぐに周りに影響を与える仕事をしたい!と強く思うようになりました。
大学院2年生となり、転職時期となり、現在の研究職は向いていないと思ったので他の理系学生が行くようなメーカーなどの業種ではなく、もっと働いている人が楽しそうな業種かつ年収が高い仕事がないかを探したところ、
年功序列という制度もなく能力に比例して収入が高くなる。
大学時代に学んでいたプログラミングという技術を使える。
他のメーカーとかで会う人とは違い、会う人会う人が仕事を楽しんでいる。
という理由で、IT企業に採用を絞り、転職活動をしました。
その結果、様々なIT企業を採用試験を受けた中で、最初の給料が500万で、頑張れば30歳前半で年収1000万円目指せる成果型の企業に就職させていただくことになりました。
浪人時代に思っていた、給料をたくさん稼いで色んな人に影響を与えるために深夜も働いて頑張るぞ!!という気持ちで実力さえあれば、どんどん難易度の高い仕事を若手に任せてくれる実力主義な会社を選びました。
大学生 ~ 大学院生
エネルギー問題を解決するために太陽電池の研究を行なっていたものの、
基礎研究では世の中に影響を及ぼせないことが心残りとなり、
IT企業のエンジニアを目指す
新社会人: 挑戦と挫折
新卒の年収が高く、自社開発(自分で製品を作っている)でエンジニアというやりたい仕事で働ける環境に意気揚々と入社しました。
研修後に会社内の一プロダクトのインフラエンジニア(この会社では、マニュアルでサーバーを管理したり、監視をしたりするのが仕事)に配属になり、レベルの高い同期や先輩に囲まれ、早く出世して稼ぎたい!!社会的に認められたい!!残業代なしで毎日16時間ほど、時には帰らず、起きている時間のほぼ全てを会社に注ぎながら、毎日誰よりも働く日々を過ごしていました。
また、仕事が出来るようになるにつれて、周りの信頼は得られ、更に仕事もどんどん任せてもらうようになり頑張って働く日々を送っていました。
ただ、配属されたプロダクトはうまく行かず、サービスが廃止になりました。
そして、私と一緒に働いていた人は他のプロダクトにバラバラに移動になりました。
そして自分は、違うプロダクトのSRE(Site Reliability Engineer)という今までのインフラエンジニアの仕事とは異なり、実際にプログラミングしてサーバー管理および監視をするサービスを作って価値を出す仕事に配属しました。
それから、すぐに、その環境に馴染むことができずに評価時期まで成果を出せず、年収が500万円から300万円まで減る。
という事件が起きました。
そして、ここで、頭によぎりました。
エンジニアとしてやっていくのは、向いていないのかもしれない。
どれだけ時間をかけて働いても、会社には認められない。
努力しても無駄なんだ。
と思いました。
当時、年収500万だったので、贅沢にも家賃が10万以上の家に住んでいました。
いままで入社してから貯金をするという考えがなく、あったら先輩との飲み会に使うという日々を送っていた私は、年収が300万円になったので食費だけで月収がなくなりました。
また、この時に家賃を滞納したり、ガスや電気が止まるという経験をしました。
そして、社会人ながらも家族に迷惑をかけて仕送りをしてもらい生活をしていました。
それから、家族の仕送りでなんとか生活ができていたものの、私は頑張って働いたのに年収が上がらず逆に年収が下がった事実に無気力状態になりました。
働く時間も次第に減っていき、8時間ほど働いたら、家に帰って寝るだけの日々を送るようになりました。
もう何を頑張っても無駄。努力しても価値がない。給料が高い人は運だけだ。と思っていました。
新社会人
初めての会社、誰よりも一生懸命頑張ったが努力が実らず逆に給料が下がるという挫折
27歳~28歳: メンターとの出会い、希望の兆し
もう人生終わり、この状況はどうやっても改善できないと思いながら日常を送ってました。
ただ、SREという組織の中でもチームを再編成という働きがあり、たまたま優秀なエンジニアの先輩がメンターとなって仕事を教えてくれることになりました。
チームが変わって配属したその日に、その先輩が言ったことが、自分の考えに影響を与えてくれています。
ただ、盲目的に時間で仕事しているのは意味がない。
エンジニアとして給料を上げて欲しいのであれば、ちゃんと企業の問題を把握して、問題に対して技術でアプローチしなさい。
問題解決できるのが、エンジニアの魅力であって、時間をただ消費するのはエンジニアではない
私は、その考えを聞いて、自分が今まで考えて実行してきた働く時間は関係ないんだということに気づきました。
それから、私は今まで労働時間で盲目的に働いていて家に帰ったら寝るという日常から、なけなしのお金でプログラミングの本を買ってインプットして、それを会社で少しずつアウトプットする日々を続けました。
その結果、すぐに年収は500万をOverして600万近く稼げるようになりました。
27歳~28歳
適切な働き方「会社にとっての価値を出すこと」を学び、単純労働から知的労働へ適切な方法で継続的に努力を行うことで初めての年収UPという評価を得る
28歳〜32歳: 集中と継続の先にある価値
メンターをしてくれた先輩は、半年過ぎたあたりで独立して個人事業主になりました。
ただ私は、まだこの企業で成し遂げることがあると思い、インプットおよびアウトプットを続けていき、700万円, 750万円, 800万円と段々と稼げるようになりました。
そして、30歳になる頃には気付いたらマネージャーになって部下を何人か率いて仕事をするようになることができました。
正直、黙々と与えられた仕事を淡々とこなす人の方が企業にはたくさんいる中で、なんで自分が責任を取りながら正解かわからない問題に対して自分だけが努力をしているので努力を辞めたいと思って、挫折しそうなことは何度もありました。
そのプロセスの中で学んだことが血と肉となり、努力することの大切さやマインド面で多くのことを学び成長してきたと思います。
28歳〜32歳
今までに短いながら培った考えを生かし、エンジニアとしての会社への価値提供を続けた結果、マネージャーとしてエンジニアを率いる立場へ正しい努力が正しい結果につながり成果を得る。
正しい方法で継続的に努力することが成果につながると確信する。
現在〜: 新たな挑戦
会社員エンジニアとして日々の努力のおかげもあってか、ある程度稼げるようになりました。
ただ、エンジニアとして技術面を身につけようと思って頑張ってきたのですが、
仕事の業務範囲が能力とともに広がっていく中で、より多くのことを成し遂げようとしたときに一人の努力では限界を感じるようになりました。
さらに、その限界を感じたことから
今の私は収入はそこそこ上がって一人では困らない程度にはなったものの仕事を心の底から楽しんでいるのか、多くの人に影響を与えているのか?
現在の会社員の延長戦上で上司を見たときに本気で仕事を楽しんでいる人がいるのか?
と疑問を感じるようになりました。
それから、
自分に考えるきっかけを与えてくれた先輩や予備校講師のように人の行動を促せるような人になりたい!!
もっとエンジニア以外でも成長の余地があって楽しめる仕事を追求したい!!
と思いました。
なので、エンジニアとして、プログラマーとしての技術だけでなく他の世界も見ておこうと様々なオンラインスクールに入って、自分が求めているもの楽しく追求できるものはないかを探しました。
そして、あるオンラインサロンのWEBマーケティングを教えている講師の方に予備校講師と同じように刺激を感じました。
「この人についていきたい」
「この人を信じて、この人との約束を破らないように努力し、行動すれば何か得られるような気がする」
と直感的に感じたました。
なので、その人が経営しているWEBマーケティングのスクールに入りWEBマーケティングを学ぶことにしました。
また、現在、少しずつですが自分の人生を更に進めるために
WEBマーケティングのマインド部分を学びながら、
インプットした内容を今まで培ったエンジニアのスキルと掛け合わせて
部下に何かきっかけを与えればとアウトプットを試みている途中の段階にあります。
現在~
エンジニアマネージャーとして、企業の価値は追求したが社会への価値提供ができているか不安になる。
エンジニアとしての技術の追求だけでは、成長の限界を感じたのでWEBマーケティングを学び始める。
このブログの読者に向けて
昔の自分は、このように考えていました。
人として欠陥品、生きていても価値がない。
何を努力しても結果が出ないし、頑張っても無駄だ。
そして、いまだに少し成長した自信を持てない状態です。
ただ、自分がやれることはただ一つです。
約束した内容を守るために全力を尽くすことだけということです。
頭がいいかというとそうではない。
容量がいいかといえばそうではない。
人との約束をただ守ることだけを必死にやる。
これだけです。
このブログを通じて、皆様に伝えたいのは実際に自分がついていくことを決めた講師からインプットした内容をアウトプットすることで
WEBマーケティングの収入が0の状態から必死に努力して、2000万稼げるようになるという内容をお届けしたいと思っています。
とにかく約束を守って、稼げるようになっていくストーリーが見せられるように頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。